氏家地方の歴史書として、室町期の戦国乱世を経て氏家地方の古事を今に伝える「地蔵縁起」があるが、その記述から氏家地方の法華信仰の歴史の概略をうかがうことができる。

その昔一人の聖者があり、妙法を修した時、鐘や鈴の音が人々の心を洗い清め、あらゆる者が感動にうちふるえた。御仏は、「善哉」とこれを讃え、鬼怒川を光輝かせた。この光はさらに聖者の御堂に映って金色の輝きを見せたと伝えられる。
釜ヶ淵あたりに見知らぬ一人の女人がおり、
「我に五衰の苦あり。法花八軸を聴聞仕り、抜苦を宥源客に請う」
「汝は誰人ぞ」
「我は海神なり」・・・・
と、悩める女性が海神との問答による大乗妙典(法華経)の法施を受け、五衰の苦しみより救済されたことが記されている。

 法華経の功徳はこのような伝説や寓話を生みながら、時代を経て卯の里の地氏家に普及されていったのである。
 氏家の日蓮宗信仰は、『妙福寺略縁起』によれば、江戸時代の天保2(1831)年、糟谷五郎衛門が法華経を深く信仰し、屋敷内に宗祖日蓮大聖人を祀る「祖師堂(そしどう)」を建立し、法華経信仰の道場としたのが始まりとされる。
 その後「祖師堂」は、御前城址の一角、天王社・弁財天等のあった弁天山に移転され、明治期には「おそっさん(お祖師様)」として親しまれ、人々の信仰を集めた。
 *「おそっさん(お祖師様)」は、日蓮宗の信者が宗祖(祖師)日蓮大聖人を敬愛する呼び方で、日蓮大聖人の俗称として広く知られている。
 『氏家郷土誌』によれば、「祖師堂」は信者の修行の場であり、次第に信者が増加するにともない明治28(1895)年に公許を得て教堂が建てられ、祈祷・礼拝が行なわれた。特にうちわ太鼓をたたいて町内を行脚する寒行は、信者たちの厚き信仰心を鼓舞するものとして町の人々の眼を惹き、また冬の風物詩としても親しまれていた。
 大正時代に入り、野澤義光上人は、しばしば近隣の市町村にも請われて出張し、家相・方位・運命鑑定等のほか秘伝の祈祷によって人々の信仰を集め、教線を拡げていった。義光上人の指導のもと人々の法華信仰がいよいよ隆盛し信者が増加するにつれて、布教の拠点の必要に迫られ、「祖師堂」の寺院格上げ運動が起こった。
 計画が具体化されたのは大正12(1923)年であったが、明治初年の廃仏毀釈の風潮は依然として根強く、新たな寺院を正式に建立することは甚だ困難であった。
 野澤義光上人の不退転・死身弘法の努力が実を結び、伊豆利島の真如山海岸寺を移転・継承することで、氏家の地に初めての日蓮宗寺院を建立することに成功したのが大正15年(1926)年のことである。
 真如山海岸寺は、室町時代半ばに文明院日浄上人(文明元(1469)年遷化)によって法灯がともされた身延山久遠寺直末(直接の末寺)の名刹であるが、海のない氏家の地に海岸寺の名称は相応しくないとして、正法山彰久院妙福寺と改称し、当山中興の祖である彰久院日應(野澤義光)上人が、中興開山第20世として海岸寺第19世一乗院日教上人(明治32(1899)年遷化)の跡を継承された。
 山号の正法とは末法救済の大白法である一大秘法妙法蓮華経のことであり、寺号の妙福は、妙法蓮華経の功徳による万民の願いの実現を意味する。院号の彰久は、中興開山日應上人の法号による。
 彰久院日應(野澤義光)上人が昭和43年に遷化された後、第21世野澤文立上人〔現院首・別院慈久結社教導〕は、昭和44年に新本堂の建立、47年には客殿・庫裡の建立、63年に本堂・客殿の増改築等々次々と寺観一新を成し遂げた。また布教教化の成果著しく檀信徒も急増し、現さくら市唯一の日蓮宗寺院法華信仰の道場としてさらに多くの人々の信仰を集めるに至った。
 平成10年より第22世野澤壯監上人が法灯を継承し、現代の高齢化社会に対応した“高齢者や弱者に優しい寺院”の実現を目指して整備を進め、平成24年に檀信徒一丸となって念願の山門を建立し、併せてバリアフリーによる客殿の建設と本堂内外の改築を行い、盛大に落慶法要が行われた。
 新しい時代の大きな変動の中で、日蓮宗寺院としてのアイデンティティーを模索しながら、常に地域社会に在って、広く人々に貢献出来る寺院を目指して活動している。
名 称 正法山 彰久院 妙福寺
総本山 山梨県身延山久遠寺
本 尊 日蓮大聖人奠定大曼荼羅
創 建 海岸寺は文明年間
開 山 文明院日浄上人
中興開山 彰久院日應上人(第二十世)
住 職 第二十二世 野澤壯監
院 首 第二十一世 野澤文立
【発願】 【思親】
昭和54年、日蓮大聖人滅後700年を記念し、「思親」「発願」の二壁画を杉山吉伸画伯の作成もとに奉安する。
杉山画伯は光風会で重責にあり、日展の審査員を二度つとめ、現在日展の会員である。