「以後」から「蘇生」へ

新型コロナウイルスによる悪性の肺炎が大流行し、世界中を混乱に陥れている。日本をはじめ、いわゆる先進国ではどうやら峠を越したようだが、第二波が到来しつつあるという観測もある。一方、発展途上国の様相は、情報の質と量に大きな問題があるので、よくわからないが、かなり悲観的らしい。

そして、今回のコロナ禍を転機として、社会のあり方が大きく変わるのではないか、と各方面から取り沙汰されている。とりわけ経済界に大きな変動が起こり、それに連動するかたちで、社会全体に大変革が起こる可能性は確かにある。ただし、現時点では、それがいかなるものか、あきらかではない。

話が拡散すると紙幅がいくらあっても足りないので、ここでは日本の宗教界、わけても日蓮宗徒に焦点を絞り、今後起こりうることとその対策について、考えてみたい。

なんらかの出来事を転機として、事態が大きく動き、その動きが後世にいかなる影響をあたえたか、という課題を考えるとき、日蓮聖人の生涯ほど、参考になる事例は他に見出しがたい。ご存じのとおり、主著の『立正安国論』は、飢饉と疫病の蔓延を背景に執筆され、この書を北条時頼に上奏したことを転機として、その後、数々の法難に遭遇されている。極め付けは、極楽寺の忍性を批判されたことに対する報復的な措置として、佐渡へ流罪となった事件である。

この事件が日蓮聖人に決定的な影響をおよぼしたことは、『三沢抄(佐前佐後抄)』に聖人自身が、佐渡島に流される前とその後では、自分の思想が大きく変わったと明言しておられる事実からも、疑いようがない。

では、なにが、どう変わったのか。それが問題だ。子細な考証はさておき、あえて断言するならば、直近ないし現状の打開に全力をあげることから、未来を見据えた上で、今、なにをなすべきか、という方向への大転換が起こったのである。

このプロセスこそ、タイトルにあげた「以後」と「蘇生」の、文字どおり最高の事例といっていい。もし、この大転換がなければ、日蓮宗徒の方々には失礼だが、日蓮宗という宗派は歴史の荒波の中に埋没し、やがて消え去ってしまったかもしれない。

もちろん、転換にあたっては、絶対に守らなければならない要件が、少なくとも三つはある。その際、判断の基準となるのは、いうまでもなく、日蓮聖人の教えである。

一つ目は、いまが本当に転機か否か、の判断である。この判断については、聖人が『撰時抄』に「未仏法を学せん法は必ず先ず時をならふべし」、すなわち「仏教を学ぶにあたっては、最初に必ず時代の趨勢を見極めなければならない」と書いておられる。

二つ目は、変わって良いこと、変わらなければならないこと、変わってはならないことを、冷静に判断し、判断したら果敢に実行することだ。この件については、聖人が『三三蔵祈雨事』に「文証、理証より、現証にはしかず」、すなわち「理屈よりも、現実的な効果のほうがよほど重要だ」と述べておられる。

三つ目は、この論考をお読みになるような、指導的な立場にある方々が、決して口にしてはならない文言があるということだ。自分の境遇や生きている時代が、悲惨だとか、地獄だとか、というたぐいの悲観的な文言である。そんなことを嘆いていても、事態はまったく良くならない。要するに、悲惨だとか、地獄だとか、嘆いている暇があったら、現実的な効果を生む具体的な手立てを考えて、実践するのが、日蓮宗徒のつとめであろう。

この三つ目の要件については、日蓮聖人とブッダの生涯を学ぶことが、なによりの対処法になる。たとえば、ブッダが活動した時代は、それこそ悲惨きわまりない時代だった。浄土経典の『観無量寿経』の冒頭には、マガタ国王アジャータシャトル(阿闍世)王による父のビンビサーラ(頻婆娑羅)王殺しが語られているが、じつはアジャータシャトル王もその晩年、息子に殺され、王位を奪われている。このような、息子による父王殺しは、これで終わらなかった。なんと五代も続き、その果てに、そのころインド最強だった王朝が滅亡している。ブッダ御自身もその晩年、一族を隣の大国コーサラのヴィルーダカ(毘瑠璃)王によって皆殺しにされた。舎利弗と目連の二代弟子もブッダに一年ほど先立って死去し、ともに殺害説がある。

しかし日蓮聖人もブッダも、ときに悲しみに沈むことはあっても、悲観に終始してはいない。嘆きのあまり、この世を呪ってはいない。

このほか、すこぶる現実的な課題に、コロナ禍を転機として、劇的に進行するであろう、というよりすでに進行しつつある葬儀や法事の激減への対処がある。

この種の事態は、なにもいま始まったことではない。高度成長期以降、着々と進んできた葬儀離れ、墓離れ、寺離れの、いわゆる「三離れ」の結果にほかならないからである。その「三離れ」が、今回のコロナ禍によって、かつてなかった次元に達し、仏教界全体が致命傷を負って、二度と立ち上がれない可能性はたしかにある。

問題の根が深いだけに、この課題にこたえるのは容易ではない。私にあたえられた紙幅も尽きようとしているので、実際的な対処の方法について、詳しく述べることはできないが、「三離れ」の本質が「僧侶離れ」にあることは、指摘しておきたい。さらに、仏教に心身両面の救済を求める人々の数が確実に増していることも、指摘しておきたい。

この二つを付き合わせてみると、個々の僧侶が、はなはだ抽象的な表現で申し訳ないが、「宗教的人格」に目覚めることこそ、難題にこたえる第一歩であり、まさしく「蘇生」の道だと思えてならない。